吉益南涯(1750-1813)
ある先生が「葛根は水分不足により血が凝まるものに用いる」と仰った
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浅学な私はこの表現に疑問を抱いた
調べてみるとどうやら吉益南涯がこのような働きを論じていることを知り
気血水薬徴を開いてみることにした
南涯の父である吉益東洞は実臨床に合わないものは切り捨てる極論者であった
「毒を以って毒を制す」「瞑眩めんげん」といった言葉は東洞の医療から誕生したものだ
1700年代梅毒などを患い他医が見放した重篤患者を診ていた東洞は水銀製剤を用いて治療にあたった
当然激しい反応が出て時には患者が死に至ることもあった
東洞はそれを”天命”と言い切り次々に訪れる患者の治療にあたった
放っておけば命を落とす患者に対して「養生しないからだ」「陰陽五行によれば・・・」と回りくどく時間のかかることを述べた陰陽医、五行論者を排除した
そのため行き過ぎた論説に異論を唱える者も少なくなかった
東洞が発した万病一毒説は完成には至らず、代表著書である薬徴も尾台榕堂(1799-1870)によって校注が加えられたものと並べて読まれることが多い
父が偉大であったこと、父に排除された医師たちからの批判、蘭方に傾いていった時代
南涯は若くして多くの門下生から期待を一身に受け、苦悩していたことは想像に難くない
二代目と言えば織田信雄、徳川秀忠、豊臣秀頼も相当の苦労であろう…
東洞の薬徴を引用する漢方家に比べると南涯の気血水薬徴を用いる方が少ないのは残念である
南涯は気血水論を用いて傷寒論を解釈して病証分類をした
東洞の万病一毒説は不完全であったため自身の手で父の偉業を完成させたかったのかもしれない
気血水は漢方とは切り離せない極めて重要な概念である
これらは良く循環すれば栄養し、停滞すれば病となる
毒はこの気血水の三物に乗じて初めて証を現わす
1750年江戸中期~後期に生まれた南涯
父や後藤艮山(1659-1733)、香川修庵(1683-1755)、山脇東洋(1705-1762)らが活躍した時代には医業をしておらず
中神琴渓(1744-1833)、和田東郭(1742-1803)、原南陽(1753-1820)、多紀元簡(1755-1810)辺りが同じ時代にいた
江戸の漢方隆盛期を過ごした一人である
気血水という概念は金元医学を輸入していた頃
つまり室町時代に田代三喜(1465-1544)や曲直瀬道三(1507-1594)が活躍していた頃から存在していた概念であり
決して目新しい物ではなかった
父が発した万病一毒説が革新的であったため対比されこのような批評を受けたのだろう
しかし内容は金元医学とは異なるものであった
一例として葛根について載せておく
葛根において興味深いのはやはり水ではなく”血部” “外位”に載せていること
肩こり、舒筋の機序
芍薬との対比を考えさせられる
父への想い、そして張仲景への想いを想像しながら
漢方の面白さを感じずにはいられない…
気血水薬徴・血部・外位
栝楼根:治血凝気欝滞者 葛根:觧急迫之凝血也
瓜蔞桂枝湯症曰身体強几々然脉及沈遅、柴胡桂姜湯症曰小便不利渇不嘔、括蔞瞿麦丸症曰小便不利者有水気其人若渇者、柴胡去半夏加栝楼湯症曰瘧病発、消者見几々然者是血凝之症而未甚故有身体也渇者血凝劇而気欝滞逐水故必小便不利其位在裏也、土瓜根散症曰至水不利小腹満痛是血滞気欝滞也異於瓜蔞者血不滞(凝)故不渇不強気欝滞雖満其気自痛故作痛也、桂枝加葛根湯症曰几々葛根湯症曰項背強几々又曰気上衝胸口噤不能語又曰下痢葛根連芩症曰下痢不止喘而汗出是因上衝血窘迫也、故此血在表則項背在裏則口若咽其位在上也、異於瓜蔞者因気血迫不得循環故致不利
栝楼根:血かたまり気欝滞するものを治す 葛根:急迫の凝血を解するなり
栝楼桂枝湯症に曰う、身体こわばり几几然として脉ならびに沈遅となる
柴胡桂姜湯症に曰う、小便利せず渇して嘔せず
括蔞瞿麦丸症に曰う、小便利せざるは水気あり、其の人もしくは渇す
柴胡去半夏加括楼湯症に曰う、瘧の病発し消なるは几几然たるを見わす、是血かたまる症にして未だ甚だしからざるが故に身体に有るなり
渇なるは血かたまりて劇しく而して気欝滞し水を逐うが故必ずしも小便利せず其の位は裏にあるなり
土瓜根散症に曰う、水利せず少腹満痛に至るは是血滞り、気欝滞する也
瓜蔞に異なるは(栝楼根について他には)血滞らず故に渇せず強ばらず。気欝滞してその気満ち自ずから痛むというなり。
桂枝加葛根湯症に曰う几々、葛根湯症に曰う項背強ばること几几、又曰く気上りて胸を衝き口噤して語ること能わず
又下痢と曰う、葛根連芩症に曰う下痢止まず喘して汗出でるは是上衝に因り血は窘迫ためなり
故に此の血表に在らば則ち項背は裏に在る
則ち口もしくは咽が其の位上に在るなり
その他、瓜蔞は気血迫りて循環を得ず故に利せざるに致るもの(に用いる)